2015年6月14日

 

「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす捧げものが御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/ 神よ、あなたは侮られません。」 (詩篇51:18~19)

 

 

 イエス・キリストの十字架に示されたかみの愛だけが、人間の救いであることは確かなことです。しかし、過ち多い人間にとって、愛が本当に救いになるためには、愛することとゆるすことが同じ意味を持たなくてはならないと思います。

神に愛され、ゆるされた者は、またどんな人をもゆるす愛を持つはずであるというのが、イエス・キリストの福音の教えだからです。しかし、人間の心はあまりにも貧しく、その判断は間違いやすいものです。 

だから、間違いを犯す自分自身をもゆるす心をもつことも必要なことだと思います。

 過ちは、たとえ、それが本当のことであったとしても、それをとがめたて、責めたてることによって、決して癒されることはありません。私たちが求めなければならないことは、ゆるすことです。それがイエス・キリストの福音の本質です。

                                         (小川宏嗣)

2015年6月21日

 

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)。

 「愛は常に現在である」という言葉があります。愛するということは、現在、あるがままの相手を認めるということ。あるがままのお互いを認め合う、ということです。私たち人間の愛は、いつも条件付きです。将来の可能性を計算に入れて愛してしまいます。それは愛でもなんでもなく、エゴイズムです。
 イエス・キリストが私たちを愛してくださっているということは、いつも、新しく、私たちの「今」を受け入れ、認めてくださっているということです。だから、それにならって、私たちもまた、互いに「今」を認め合うように、イエス・キリストは求めておられます。
 罪を犯しても、失敗しても、神の心を痛めることがあっても、神の憐みに信頼して、神の愛に信頼して、「ゆるされて生きている」ことを受け取っていきたいと思います。愛において現在を受け入れ合うこと、そこに限りない価値があり、成長があり、豊かさがあります。神を信頼し、愛を生きる人間になりたいと思います。(小川宏嗣)

2015年6月28日

 

 受けること無しに与えることはできません。

 ルカによる福音書10章の「マルタとマリア」の物語は、直前の「善いサマリア人」のたとえ話と対をなしています。隣人に仕えることの意味と大切さを説いている、このたとえ話。一方で、仕えるということが強調されすぎてしまうと、善行を積むことこそが一番大切なように思えます。マルタとマリア。二人の姉妹は、それぞれ活動的生と観想的生を象徴する存在として捉えられてきました。実践(マルタ)は生の営みにとって不可欠だけれど二次的で、観想(マリア)こそ人間の本来のあり方を表している。このような理解は、この姉妹の間に生涯埋められることのない溝を引いただけでなく、教会において、個人の信仰生活において、分断や断絶を招いてきました。不幸な対立を乗り越えるために必要なこと。冒頭に記した言葉が鍵となるのではないでしょうか

 受けることの貴重さ、有難さ。神学生としての学び、歩みの中でも核心部分にあることの一つです。歴史的に見て、私たち日本バプテスト連盟に加盟する諸教会の歩みは、その多くをアメリカの南部バプテストに連なる諸教会の祈りと支えに負っています。多くの宣教師の献身と経済的支援の上に、今の私たちの歩みがあります。1971年の時点で連盟予算の約85%は、南部バプテストが負担していました。自立のための「5か年計画」を経て、連盟創立30年に当たる1977年にようやく、経常費部分の自立を達成することができました。神学校献金は、伝道者の養成と経済的な自立を祈り求める中で始められました。受けること。あなたは、神様から何を受け取っていますか。そして、それを携えて、どこに送りだされていくのでしょうか。

                         (西南学院大学神学部 神学生 元川信治)

2015年7月5日

 

「平和を実現する人々は、幸いである。・・・」(マタイ5:9)。

 

「平和」を旧約聖書は「シャローム」と訳しています(イザヤ9:6)。

カトリック教会の神父で大阪・釜ヶ崎で野宿者の支援をしている本田哲郎さんは、シャロームについて次のように述べています。

「『平和(シャローム)』とは単に、戦争がなく、社会が繁栄しているというようなことではありません。ヘブライ語のシャロームは物事の“充全性”を表す言葉で、“傷ついた部分のない状態”を意味します。国や民族の大多数の人が幸せに暮らしているとしても、もし、少数であっても、抑圧されたり、差別されたり、軽んじられたりしている人々がいる限り、それは平和とは言えません。家族のメンバーが九人いるとして、そのうち八人が健康に恵まれていても、一人が重病の床にあるならば、その一人が回復の兆しを見せるまでは、家族全員が気掛かりで、落ち着かないと同じです。」(『イザヤ書を読む』)。

シャロームとは傷ついた人が一人もいないこと、誰一人見捨てられていないことです。だから、この世界は平和とは決して言えません。

平和の実現ために、自分自身の中にある敵意と闘わなければなりません。私たち人間の心にある、誰かを傷つけたり、誰かのものを奪い取ってしまっても構わないと開き直る力との闘いです。もし、私たちがひとりの他者の痛みに無自覚、無関心であるならば、シャロームの実現はありません。

何より教会は、この世界に平和を実現するために神によって召されていることを心から覚えたいと思います。「平和、平和」と口先だけでは何もなりません。そのような努力をする教会、本当に平和のために立ち、努力する教会になる、それがキリスト教会の大事な仕事です。(小川宏嗣)

 2015年7月12日

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」        (マルコによる福音書1:1618

 

イエス・キリストが弟子として最初に招いたのは漁師たちでした。無名の、ごく普通の人たちです。主イエスは神の愛を宣べ伝える働きのために、一人ひとりを 信頼し「わたしと一緒にやろう」と呼びかけたのです。その時、漁師たちは、「自分に出来るのだろうか、もっとふさわしい人がいるのではないか、どうしようか」と迷ったのかも知れません。

しかし、彼らは結局、その働きを引き受けていきます。それは、彼らが自分を  信頼し、期待を込めて呼びかけてくれた主イエスを信頼したからではないでしょうか。

大変な仕事を引き受けていく時に大切なことは、その働きを「一緒にやろう」と呼びかけてくれたその人に信頼していくことです。能力、才能の有無、時間の余裕のあるなし、得て、不得手などを乗り越えて、自分を信頼し、呼びかけてくれた  その人に信頼して、一歩踏み出していくことが大切です。

また、「任せる」ということは、自分は何もしなくてよいとか、自分は知らない、ということではありません。任せられた人が、その働きを全うできるように、一緒に働き助けていくことですし、それができない場合でも祈って助けることができるのです。助け合うという業の中に神の恵みが与えられていきます。教会の働きとは、神の招きの前に、共に働き、助け合い、祈り合うことによってなされていくのです。(小川宏嗣)

2016年1月3日

 

「だから、キリストを結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

(コリントの信徒への手紙二 517節)。

 

新年おめでとうございます。主の平安のうちに新しい年をお迎えになられたことと思います。今年も福岡バプテスト教会に連なるすべての方々の上に、主の祝福が豊かにありますよう心よりお祈り申し上げます。

私たちの「新しさ」とは、単に私たちに2016年という新しい年がもたらされたから「新しい」、「新しくなる」のではありません。神様がクリスマスにおいて、独り子イエス・キリストを救い主として私たちにお与えくださったことによって、あるいは、私たちが信仰告白に導かれて、「悔い改め」をさせられたことによって、私たちはすでに新しくされているのです。私たちの新しさとは、神様がもたらしてくださったものなのです。

だから、私たちはすでに新しくされた者として、神様が与えてくださった新しさ、つまり、私たちが今、どんな悩みを抱え、どんなに困難な中にあっても、希望をもって生きることが出来るのだということ、そのことについて互いに語り合いたいと思います。

 

2016年の初めの主の日に、私たちの歩みが神様への感謝と讃美から踏み出せるならば大きな幸いです。そしてこの年も神様を心から信じて、互いに励まし合って、支え合っていこう、と決心していきたいと思います。そのことが私たちの真の「新しさ」なのです。(小川宏嗣)

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2015年7月19日

 

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。詩編85:910

 

 

第二次世界大戦終結直前、ナチス・ドイツによって処刑されたドイツのD.ボンへッファー牧師は次のように語っています。

「…『安全』に至る道を通って、『平和』に至ることはできない。なぜなら平和は、そのためにあえて行動しなければならないものだからである。『平和』は、『安全』の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。これに対して、平和とは、神の戒めにすべてをゆだね、安全を求めないということであり、信仰と服従によって諸国民の歴史を全能の神の手に委ねることであり、諸国民の運命を自分に都合よく左右しようとは思わないことである。…」

(ボンへッファー『告白教会と世界教会』)

 

私は神のみ言葉に自らを委ねて、安全ではなく、平和を求めます。自分を守るための戦いこそが、戦争を引き起こしていくからです。

私はイエス・キリストの御名によって、戦争法案に反対します。決して従いません。いかなる戦争にも協力しません。武器による戦いには、勝利はありません。神のみ言葉にのみ従います。そのことによって十字架に行き着くことになっても、そこに勝利があり、平和があるのです。       (小川宏嗣)