小田部のフジ

 

 福岡教会のフジは、黒田藩の家臣小田部為雄(幼名・龍右衛門)が、親友平野二郎国臣(黒田藩の勤王の志士)の死を悼んで、自分の屋敷(現福岡教会はその一部)に植えたのが始まりとされています。黒田藩の紋所が「藤巴」であったことから、藩主黒田公が大変お気に召され、「御藤所」として小田部が「御藤番」を勤めた由緒あるフジです。

 

「立ち寄りて見てもゆかなむわが宿の、

    軒端にかかるはなの藤波」(為雄)

 

の歌のように、当時フジの季節になると黒田藩の家紋の入った門が開けられ一般にも開放され、見事な花を楽しむことができ、最盛期には56株、2000坪(6,600㎡)に及んだと言われています。

 一方、この藤園のフジは種類も多く、早咲きの白(山藤)に始まり紅、薄紫、濃い紫、そして最後の遅咲きの白藤まで花期は一カ月にも及び、明治、大正、昭和(戦前)を通じ福博随一のフジの名所として、国鉄の「旅のニュース」や新聞に、開花状況を知らせる「藤便り」が載せられていました。そして、バンコ(木や竹の長椅子)に緋毛氈を敷いた茶店もでき、藤見会や琴の演奏会、茶会、句会、詩吟大会などで大いに賑わった由です。

・・・小田部のフジによせて・・・(3)

       

    フジの兄弟

 

気持ちが沈みがちなコロナ禍の毎日です。しかし教会のフジは今年も約1週間早く綺麗に咲いてくれました。花を眺め密かな香りに浸ると、本当に心が慰められます。

教会のフジの兄弟が近くの福岡教育大学附属小学校にあり、学校のシンボルとして長年手入れがされてきたフジ棚に、今年も見事な花を一杯咲かせているのを知っている方は少ないのではないかと思います。そして以前は藤棚の下で毎年「藤見学芸会」が開かれていましたが、今年は残念ながらコロナ禍で「藤見会」として規模を縮小して開かれる由、お話を伺いました。通りすがりにも一寸見せて頂いたらと思います。

そのフジ棚の下には次のような案内文があります。

 

 附属福岡小のシンボル「ふじ」と黒田官兵衛

今から四百年以上も昔のお話しです。

黑田官兵衛(福岡城の最初の殿様 黒田長政の父)は、織田信長に反していた荒木村重の心をかえさせるため、一人で摂津国(兵庫県)の伊丹城に乗り込んでいきました。しかし、村重は官兵衛の一生懸命の言い聞かせを聞かないばかりではなく、かえって官兵衛をだまして城の中の牢獄に入れてしまいました。薄暗い牢獄の中で半年以上過ごした官兵衛は心も体も疲れきって、もうしかたがないと死ぬことを覚悟するまでになりました。

ある日、見上げた牢獄の小さな窓に力強く伸びている「ふじ」の若枝を見て、「ハッ」と胸をうたれ死んではならないと思いなおしました。官兵衛が毎日見つめるその若枝は、ぐんぐん伸びて窓いっぱいに広がり、とうとう花のつぼみをつけるようになりました。この「ふじ」のたくましく育つ姿を見て自分の心の弱さを反省して、生きぬくことに一生懸命努力しました。

その後官兵衛は、黒田二十四騎の栗山大膳や母里太兵衛などに助け出されて、豊臣秀吉の天下統一に立派なはたらきをしたということです。

このようなゆかりをもつ「ふじ」は、黒田の殿様の紋どころ「藤巴」となり、福岡の地に植えられました。附属福岡小の「ふじ」は、明治三十年ごろに、西公園通りにあった小田部家のふじ園から移植したものだといわれています。

附属福岡小の「ふじ」は、母校のシンボルとして、今でも力強く根付いています。       平成26年1月吉日作成

 

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記事として掲載することをお許しいただいた、福岡教育大学付属福岡小学校(教頭 斎藤先生)にお礼申し上げます。

 

また、小田部家第6代当主・小田部秀彦氏には、「小田部のフジ」について色々資料を頂きお宅に伺って古い資料を見せて頂いたりしていましたが、さらに色々な逸話などの記事をご一緒に集めたり調べたりしている途上、残念ながら昨年10月、お亡くなりになりました。ここに長年にわたるご厚誼に感謝するとともに、主のお慰めをお祈り申しあげます。

 

                                                                          附属小学校のフジ

・・・・小田部のフジによせて・・・(2)

 

フジについて

 

フジは豆科のつる性落葉低木で多くの園芸品種があり、世界各地に植えられています。フジの名前の由来は、「花が風に吹かれて舞い散るようす、“吹き散る”からフジになった」とか、「茎に節があることから、ふしがフジになった」など言われています。

フジは花を楽しむばかりでなく、家具(籐いすなど)、藤布、藤紙など色々に使われています。フジは昔から日本人に愛されている植物で、万葉集に「藤波の花は盛りになりにけりならのみやこを思ほすや君(防人司佑)」の歌があり、日本紀略(902年)には、宮中で「藤花の宴」が行われたとの記録があります。また、枕草子(84段)には、「めでたきもの・・色合い深く花房長く咲きたる藤花、松にかかりたる」と書かれています。

江戸時代に作られた、桜、梅、躑躅など「江戸名所花暦」には、武家屋敷、茶屋・料理屋、富豪の庭など、45カ所が紹介されています。武家屋敷は、普通人は滅多に入れませんが、花の時節には敷地内であっても解放され、花見が許されていました。フジは武士・桜井栄久の小石川白山の屋敷が有名で、庭一面のフジが見事で、その通りは通称フジ棚横町と言われていた由です。福岡教会のフジも元は小田部家の「フジ園」があったところで、黒田の殿様がフジを鑑賞された後、一般に開放されていました。

フジの花言葉は、花穂が頭を下げてお客を迎え入れることから連想し「歓迎」、また、蔓がしっかり巻き付いて離れないことから、「決して離れない」があります。

 

教会のフジも、そして教会も、皆さん大歓迎、お出でになられたら決して離れないような、豊かな交わりが出来たらと思います

 

小田部のフジ 歴史資料の一部

・・小田部のフジによせて(1)・・・右巻き、左巻き

 

「左巻き」と言う言葉があります。広辞苑によると「時計の針と反対のまわりかたで巻くこと」、「(つむじが左巻きの人は正常でないという俗説から)頭の働きが少しおかしいことあるいは人」とあります。この言葉は、つむじが左巻の人が少ないと言ったことから出たとも言われています。では植物では? 

日本の植物学の草分けとして有名な、貝原益軒は1709年「大和本草」と言う本を書きましたが、「ツルクサ」はすべて左巻であるとしています。しかし実はこれは間違い。植物には、アケビやアサガオ、キウイフルーツ等の右巻きの植物、スイカズラ、ヘクソカズラやツルリンドウなど左巻きのものもあります。そして同じ植物でもヤマフジ、ナツフジは左巻き、ノダフジは右巻と左右両方の植物もあります。

では右巻き、左巻きはどういう巻き方を言うのでしょうか?これまた昔から日本でも外国でも色々議論のあるところで、その定義は図鑑や教科書によって違っています。しかし現在では日本植物学会(1956)、日本植物生理学会(2007)で決められた、蔓の伸びる方向を根元から見て時計回りに巻きながら成長していくのを「右巻き」、反時計回りを「左巻き」と考えるのが一般化しています。

では蔓はなぜ巻き付くのでしょうか? これは長いあいだ疑問でしたが、最近の研究の結果、蔓が触れた外側の細胞が右や左に傾いて伸びるためと言うことが分かってきました。

右巻き、左巻きはそれぞれの植物の固有なもので、遺伝的に決まっており南半球、北半球などの生育場所や色々な生育条件によっても変わりません。

ではなぜ右巻き、左巻きが遺伝的に決まっているのか。その仕組みは全く分っていません。最近遺伝子操作の技術が発展し花や野菜の新しい品種も作り出されていますが、これら遺伝子工学の研究や技術の発展によってその仕組みが解き明かされる日も遠い未来ではないでしょう。たったこれだけのことでも自然は分らないことが多く、その不思議さは驚くばかりです。

さて、福岡教会のフジはどうでしょうか?福岡教会には3種類のフジがあります。

正面入り口を入って右側にあるのはヤマフジ(濃い紫色)、左側には2種類の花色の違ったノダフジがあります。

 

堅いつぼみの中ではとっくに花芽は出来ていて、じっと寒さをしのぎながら春の開花の準備を着々と進めています。花が咲いたら美しい花を愛でながら、どうぞ改めて蔓がどちらに巻いているか、右巻きか左巻きかしっかり確かめて下さいますよう。

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2018年の福岡教会のフジ

周りを高層マンションに囲まれた中央区荒戸町の一角に、福岡バプテスト教会は慎ましく佇んでいます。その前庭に今年も藤の季節がやってきました。昨年樹木医の診断と治療を受けた老木の藤はすっかり元気を取り戻し、今こそその時とばかりに、可憐な濃紺と紫とピンクの花を咲かせています。道行く人々は思わず立ち止まり、フェンスに掲げられた案内板に目を通したり、気高く咲く藤の花に見入ったり、それをカメラに収めたりいています。